◆このエントリー群は、例大祭14で出した魔理沙の総集編に関連して、何となく原稿作業中に思った事を書き連ねるものです。
中身に興味を持ちましたらこちらで委託しておりますのでどうぞ。


魔理沙にとって星はやはり特別なものである。

前回の魔法(哲学)の話を少し続けると、実は占星術はギリシャ哲学の時代から四大元素と結びつけて考えられていた。
星を研究することで、世界を解き明かそうとしたのだ。そういう点で、魔理沙は蓮子とある意味で近いかもしれない。

しかし、彼女の研究は手法こそ帰納的だが、恐らく興味は世界ではない。
自分だ。魔法を研究することによって、自分がどうにかして助かる手段を見つけたいのだ。
その一方、きっとアリスの興味は世界の成り立ちの方に向かっているのだろう。対称的である。
(その世界が一体どこまでの範囲を指すかは別として)

書籍の時系列をそのまま捉えるなら、彼女が星に興味を持ったのは流星群鑑賞会だ。
キラキラ綺麗でいかにも彼女が好みそうだが、初めて見た時彼女は何を考えたのだろうか。
それがなくとも、西洋の魔道書を読み漁っていたのならいずれ星の魔法という着想は得ていただろう。
あるいは、元々着想はあって、彼女の中にカチッと腑に落ちたきっかけが流星群だったかもしれない。

もっとも、霖之助が全て本当の事を言っているかはだいぶ怪しいけれど。
何せ恋色マジックと共に惑星を従えて登場したのだから。

とにかく星の魔法は、彼女にとってある意味救世主のようなものだ。
どうやら「星成分」というものが幻想郷の大気中には存在するらしい。多分発見者は彼女ではないだろうが、それを魔法にしたのは彼女が初めてなのかもしれない。
文字通り取るなら、これは人間である彼女の魔力に依存することがなく、いくらでも使えるリソースである。
現代で言う、水から水素を取り出して燃料にするようなものである。変換効率を改善すればするほど出力(=恐らく星の数)が上がるのだろう。
実際、恋符にもこの星成分から作ったらしき物体は見てとれるし。

しかしながら、だ。依然、彼女は星の魔法使いではなく恋色魔法使いであるし、恋符の使用率(自機としての)も星符と同程度である。
星は自分ではない何か。キラキラした何か。目指すべき何か。
自分自身を助けるためには。自分自身をどうにかするしかない。
なぜ恋に拘るのか?
それはやはり、彼女が「魔法使い」だからである。

星の話ではなくなってしまったし、訳の分からない話になってしまった。良ければ以前のエントリーをご参照されたい。

雪と星は何となく似ている。キラキラしていて、静かに瞬く。
個人的にも雨より雪の方が好きです。
星はやっぱり、彼女にとっては救済の一つではあるのです。
だけど、結局のところ、自分でどうにかするしかないよね。

ちなみに該当の収録作品、「きらきらひかるほしのうえ」はこれはもう非常に気持ち悪い。
あとがきに至るまで一貫して気持ち悪い。単体で出した当初の本を持っている人はどうかあとがきは無視してほしい。気持ち悪すぎていっそ潔い。
女の子女の子している魔理沙ちゃんは可愛いのだが、女性性というのは行き過ぎると気持ち悪くなるものだ。
うじうじグルグルと1人で延々と悩んでいるし、結局自己解決しているしなんなんだ?
この魔理沙だけは、そのまま抱えて死んでほしい。
しかし。自分が生きているということは、きっと彼女も生かさないといけないのだろう。
◆このエントリー群は、例大祭14で出した魔理沙の総集編に関連して、何となく原稿作業中に思った事を書き連ねるものです。
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まだ序論です。私の書く論文はだいたいいつも序論がやたらめったら長くなります。もはやしょうがない。

魔理沙とは不思議なものです。
名前を見るだけなら確かに薄暗い。雨が二つの霧雨に、さらに名前が魔に沙である。
(なんで下の名前で更に水部重ねちゃったの???そしてその魔はなんだ??????)

しかし彼女の使う魔法は、熱と光の魔法-恋符に星符である。
極めつけは語尾のだぜ、だ。彼女を見た者は最初、パーッと明るい竹を割るような性格を想起するだろう。
私も例に漏れずそう考えていた。属性で言うなら火、闇と光なら光だ。
しかしながら、水行である。
萃夢想と香霖堂の二回、そう書かれたように、魔理沙はその名の通り水行・水属性の人間なのだ。
うわぁーというほかない。
白黒で、星で、熱と光の魔法で、恋色で、水だって?
うわぁーーーーー
うわあーーーーーーー。


何という矛盾を抱えているんだ、彼女は。


それでは、生まれつき熱を弱める「水」の性質を持つにも関わらず熱を渇望する彼女は、
いったいどのように魔法を習得するのであろうか?

「魔法」の「研究」。ただ独立した二つの単語を並べただけに見えるかもしれない。
しかしながら、本来この二語の親和性は非常に高い。並んでいて至極当然だ。
自明であるかもしれないが、改めて強調して記そう。


ギリシャ哲学の時代に遡る。
哲学?唐突だな、魔法と何の関係があるのだ、と思われるだろうか。
プラトンは、我々の認識しているものはイデア・虚像(似像)に過ぎないと言った。
アリストテレスは、それに対し実像(というと語弊がある―要因、根源)を認識していると言った。
確かに近代の魔法のイメージからはほど遠いかもしれない。しかし、こういった人々の興味はこの頃からただ一つだ。

「世界は一体、何で構成されているのだろうか?」

世界の構成要素。我々が触っているものの本質は何なのか。
実は、水・火・土・風(空気)といった、西洋系の魔法モノで頻出の”四大元素”はこの哲学の流れから生まれたものなのだ。
東洋では五行-木火土金水や陰陽が構成要素であると考えられた。
西洋では唯物論的な方向に細分化・発展した結果、実際に水から何が出来るのか、火から生まれるものは何か、といった実験が行われた。

さあ、ようやく研究との繋がりが見えてきた。
やがて人間の性か、本質的な世界への興味だけでなく、実用的な方向に活用する者も現れる。
金<ゴールド>を練成できたら。何から構成されているのか分かったら。
病気を治せたら。どの薬がどう作用するのか分かったら。
(ここまで書いて、該当のwikipediaを見たらほぼコンテンツが一致してしまっていた。つまり一般論ということだ。つまらなくて申し訳ない。)

即ち、錬金術―金を作り、更には賢者の石に発展し、永遠の命を研究したもの。
即ち、薬草術―魔女狩りの際に犠牲になったと言われている者が、命を賭して研究したもの。
それぞれ現代の化学や薬学に繋がっている事は明らかだ。

現代の自然科学は事実に基づいた論理で構築されている、だから、哲学や科学に至っていない魔法などと一緒にするのは誤りである―そういう風に考える人もいるだろうか。
だがそう言われたら、私は笑いながら嬉々としてこう言い返すだろう(性格が悪い)。
基本的にどの学問でも、博士号はPh.Dの和訳だろう?
ではそれは何の略だ?
"Doctor of Philosophy"―あらゆる学問において、それを修めた者はみな"哲学博士"なのだ。

ならば、魔理沙は魔法の徒であり、科学の徒であり、哲学の徒なのである。

従って、私は魔法使いとはまさしく研究者そのものだと考えている。
自分の興味を満たす為、あるいは何かを解決する為、世界の探求を行う者である。


…おいおいおまえ話を盛るなよ、Ph.Dの語源はラテン語の方だから現代英語と全く同義じゃないだろうが、と言う人もいるかもしれない。その場合は残念、その通りだ。タネのある言葉遊びだ。
まあでも、どちらにせよ要は哲学と博士号の語源は共通なのである。
私が言わんとしていることは何となく伝わってほしい、ロマンなのだ。



ということで、私は科学を自分の興味を満たしたいといったような、人間の欲求を根源に始まったものだと考えている。
しかしその派生として、何かを解決する為に科学を行う者が出てきたと話した。
研究者をある一軸から見たとき、そういった「興味追求型」と「課題解決型」の2つに分けることが出来るかもしれないと考えている。
その軸上でいうと、魔理沙は明らかに課題解決型ではないだろうか。恐らく何か解決したいものが彼女の中にはあって、その為に魔法技術を磨き続けているのだ。
知への探求心や好奇心ももちろんあるだろうが、明らかにしたいものは世界の真実ではなく、
彼女自身の中にある何かであろう。
その一方で、アリスは典型的な興味追求型に見える。世界を観察し、何らかの事実を明らかにしようとしているのではないだろうか。人形を通じて。
ただ、あくまでも興味があるのは世界だから、他人には興味がない。
言うなれば自分自身と世界にしか関心がないのだ。だから邪魔をしない限り人間に危害は加えないが、研究の邪魔をするなら容赦しないだろう。
うーん、いかにも理論系の研究機関にいそうである。



ちなみに該当の話は作画が酷い上に話も盛り過ぎて訳が分からなくなっている。
本は2012年に出したのだが、ちょうど鈴奈庵が連載開始する直前くらいである。
当時は独自解釈とオリジナル要素が強すぎるなと思いながら描いていたが、
その後邪龍が登場したり、実際に魔理沙が人の死を何とも思わないという記述が出てきたりした事を考えると、あながち方向性としてはそこまでかけ離れていなかったのかなぁと思いました。
しかし龍の子(ぴーちゃん)は完全にただの趣味なのでまぁアレです。

ただ一つだけ明らかに間違っている解釈(五行のアレは写植ミス)があります。
直そうかと思いましたがそのまま収録したので暇で死にそうな方は是非探してみて下さい。魔理沙ちゃんではない。


ところで再三言うようですが、もうちょっと水行の魔理沙ちゃん増えるかなと思ってたんですけどあまり見ない(把握できてないだけかも)ので、随時情報提供お待ちしております。
季節でいうと冬だという事が明らかになったことですしね!!!!!!!!!もっとみんな描いて!!!!!!!!!!!
このエントリー群は、例大祭14で出した魔理沙の総集編に関連して、何となく原稿作業中に思った事を書き連ねるものです。
中身に興味を持ちましたらこちらで委託しておりますのでどうぞ。
特に作品の解説ではないです。そもそも作品の解釈は受け取り手に委ねられるべきもので解説など野暮!と思っているので、
総集編をダシにした魔理沙語りのつもりです。
自分自身は作者の解説を読むのはめっちゃくちゃ好きなんですけども。





一番最初はイントロダクション/序論の、魔理沙の雨の話。作品名的には「夏の雨は冷たくない」。
論文ならばこの話が要旨でも良かったのではないだろうか?


そもそも「雨」は他のどの天気とも異なる雰囲気を持っている。
聴覚・視覚・嗅覚・触覚の四感に訴えかける天気だ。ひょっとしたら味覚も入れてもいいのかもしれない。

雨と少女、の原典はやはり「レイニーブルー」である。古い百合好きの人間で恐縮だが、マリア様がみてる、のシリーズの一つだ。
又は同じくマリみての「茨の森」。佐藤聖(せい―ひじり、ではない)というキャラクターがいずれの話においてもキーになるのだが、
茨の森を読んだ当時、文章から雨の匂いと音が聞こえ、それに閉じ込められる聖のなんとも閉鎖的な想いを追体験したような気分になった。

外はざあざあ、ざあざあ、雨が降っていて。
温室には、聖と栞―聖の想い人―の二人だけ。
お互いの長い髪の毛を三つ編みにして。この瞬間が永遠にも思える。
永遠ではない、それこそ栞が卒業してしまえば一瞬にして消えてしまう瞬間だとは分かっているけれど。
そんな想いをしている癖にレイニーブルーで後輩が同じく雨に打たれていたら超いいタイミングで現れて傘を差し出す聖様やばない?????
はい。
ということで、これが雨に鬱屈した想いを乗せる文脈のオリジナルになっているはずだ。

今でもたまに雨の日はあの、想い人の少女と髪を結び合わせて彼女と同一化を図った、佐藤聖のどうしようもない場面を思い出す。
栞はマリア様の庇護のもとにある少女だから、決してその想いは叶うことはないのだが──マリア様がみているから。

そんな風に少女を温室に閉じ込めていく雨―「霧雨」という姓と気質は、魔理沙が生まれながらに背負わされた唯一の、いわゆる仏教で言うところの業である。
それに対して彼女がどのように感じるのか、受け入れるのか、拒絶するのか。それはまた別の話。
原作を読む限りでは、うまくミニ八卦炉の制御に利用しているのではないだろうか。
木行の霊夢は水行である魔理沙によって強化される。香霖堂では、従ってなかなか勝てはしないが相性は良い、と言われている。
ただ、霖之助の言うことは半分与太話のように見える。あまり真に受けない方がいいだろう。


ところで、アリスも霊夢と同様に木行である。
この五行の性質の他、二人の共通点は他人に興味がない冷めた性格であると解釈しているが、
霊夢は自己の領域に入れた上で興味を示していない一方で、アリスはそもそも自己の領域に他人を入れようとしない点が異なる。
要するに霊夢は分かった上で無視を決め込んでいるが、アリスは元々自分の世界にしか興味がないのだ。

ではそんなアリスが他人に興味を持ち、執着するのは一体どういう時か。
当然、自分の世界が何者かによって壊された場合──他になにがあるだろうか、
霊夢だ。
魔界という彼女の世界に踏み込んできた、魔法を使うでもない、ただの人間。
魔理沙はいい。同じ魔法使いだから。

でも、霊夢は。
霊夢だけは。
最初から全てを持っている人間なのだ。


だいぶ脱線したので話を魔理沙に戻そう。
という訳で、アリスに魔理沙への興味を持ってもらうのは一苦労である。
彼女が持って生まれたものは雨、ただ一つだ。無力な人間である。
恐らく何かを成そうとしても殆ど成せる事はないだろう。

ならば彼女は結局雨と共に生きるしかない。

目の前で泣くという行為は、相手の領域に無意識に、裸足で踏み込む行為に等しいのではないだろうか。
魔理沙が意識して、能動的に行った行為はすべて、きっとアリスの何をも変革する事はかなわなかったであろう。しかし、
もしかすると、無意識の行為はたびたび刺さっていたのかもしれない。




と宣言通り漫画の内容とはほとんど関係ありませんでしたが、
つまり乙女な魔理沙ちゃんは可愛いよねってことでひとつ。